一日として同じ日は無い
先日、家の中の階段で滑って転げ落ちたバンミ子です、こんにちは♪
これ、階段を放ったらかし過ぎだよ!階段の存在を思い出そう!のサインだと思うのですよね。なので、その日、丁寧に一段一段『いつもありがとね』と呟きながら水拭きしたのでした。階段周辺の空気がかなり軽く明るく変わった気がしますよ。
そこに在る『今』を見てあげることが大事なのは、人も物も植物も同じですね。
さてさて、毎日暇だとか、毎日が同じことの繰り返しで退屈だとか、毎日変化が無くてこのままでいいのか不安だとか、そう思ったこと、誰でも一度はあるのではないでしょうか。
こういう風に思うとき、この世はなんでも諸行無常だということをすっかり忘れてしまっているときであり、目の前の変化を全く見ていないときでもあります。
諸行無常(しょぎょうむじょう、パーリ語: सब्बे संखारा अनिच्चा, sabbe saṅkhārā aniccā)とは、仏教用語で、この世の現実存在はすべて、すがたも本質も常に流動変化するものであり、一瞬といえども存在は同一性を保持することができないことをいう。「諸行」は、この世の一切の事物と現象を指し(有為法)「無常」とは、一切は常に変化し、不変のものはないという意味。宋代の仏教書『景徳伝灯録』によれば、釈迦牟尼仏が入滅に際し、沙羅双樹の木の下で説いた言葉と伝えられる[1]。三法印、四法印のひとつ。
人も物も植物も感情でさえも、一日として同じ日は無いのですよね。
一瞬一瞬変化しています。
将来の不安に駆られるとき、過去の記憶に苦しまされるとき、人はこの目の前の一瞬の変化を見ていません。
将来の像、過去の記憶という漠然とした捉えどころのない頭の中の映像に焦点が行っていて、目の前の植物の変化に気がつきません。目の前の子供の変化に気がつきません。そして自分自身の変化にさえ気がつきません。
実際には、毎日刻一刻と全てが変化していて全く違う日だけど、忙しく過ごしていると、そういうことに目が行かない。
まだ起きてもいないことを考えては焦る。
嫌な過去を思い出しては、再度嫌な気分を味わうことに時間を費やす。
勿体ないですよね。本当に勿体ない。
これこそが、煩悩そのものなのではないでしょうか。
ほんのちょっと、ほんのちょっと視線をしっかり目の前のものに向ければ『今ここ』に戻れます。『今ここ』っていうのは、階段を一段一段拭くのもそうだし、料理に集中するのもそうだし、ガーデニングをするのもそうだし、子供としっかり向き合って会話をするのもそう。
とにかく意識をあっちこっち飛ばさず1つのことに集中する状態をできるだけ保つ。
そして淡々と毎日を過ごす。それでいい、それがいいのです。
淡々と今に集中して過ごす日々、それこそが変化に富んだ日々なのですから。
今日もアートな一日をお過ごしください♪
バンミ子